「ガンに抗う」

林 計男

 二〇一三年秋の人間ドックで、「膵臓に異変あり」と指摘があった。その後、主治医から紹介された病院の精密検査で、膵臓内の水ぶくれ(膵嚢苞(すいのうほう))は癌化のおそれがあるので、経過観察が必要と指摘された。
 そして、二〇一五年秋、「経過観察を無罪放免のように受け取ったら、安易すぎますよ。あなたのように、七五歳を超えたら、健康管理にもっと心を砕くべきです」と真顔で警告してくれた、人間ドック検査結果報告担当の女医の言葉も殆ど忘れかけていた二〇一六年一月末、病院からファックスで「至急来院、診察を」と緊急送信があった。
  オレオレ詐欺に代表される、不審な営業案内の電話が少なくない自宅電話の受話器を、通常、在宅の場合もとらず、「御用の方は、御用件をお話し下さい。ファックスの方は、送信して下さい」との受話器の案内に任せ切りにしている私へ緊急連絡のファックスであった。思えば、担当医から「経過観察のため、次回は四月六日に診断を受けて下さい」と指示されたのは、二〇一六年一月十二日のことであった。
  何の緊急連絡かといぶかりながら、病院に赴き、CT検査などを受けると、「入院・手術を受けるように」と勧められ、その場で、私は入院・手術を受ける決断をしたのであった。
  「病院内のカンファレンスにおいて、放射線技師が、十二指腸に腫瘍の疑いありと指摘し、担当医も改めて見直した後、腫瘍と確認した」との経過説明であった。
  しかし、この段階では、担当医は、腫瘍とのみ言って、癌とは明言しなかった。
  二月一五日に入院し、十九日に、妻、長女、長男が顔を揃えた家族への医師の説明を受けた。私は、娘婿にも、一緒に医師の説明を聞いて貰いたかったが、彼は遠方へ出張中であった。彼は医療機器関連企業に従事し、自ら母親を癌により失って、癌治療の実情にも明るい頼もしい助言者であった。
  「十二指腸は、周辺に血管が錯綜しており、手術は大がかりとなり、八時間を要するので、七十五歳の年齢を考慮すると、一般的には、体力のある女性ならともかく、男性にはリスクも大き過ぎるので、今回は胃と空腸を結ぶバイパス手術を行い、事後に抗がん剤治療を行う」という治療方針のもとに手術を実施する。執刀は、癌研出身の主治医の後輩の医師で、当該執刀医の日程上の理由から、手術は、当初予定した二二日から、二四日に変更したのであった。
  入院を前にして、私は自筆で遺書を書いた。医師と病院と、何よりも現代の医療水準の高さを、私は基本的に信頼してはいたが、同時に、最悪の事態をも想定せざるを得なかった。自筆の遺書は、家庭裁判所に届け、そこで開封してもらわないと、民法上有効でないので、妻には、最寄りの家庭裁判所の所在地を教えた。遺書の内容は、妻の希望を尊重したものとした。
  二月二四日朝、二人の孫、長女の二男の高校二年生と、長男の長女の中学一年生から、「手術頑張れ」と私宛にメールが届いた。手術に向かう病室の、妻、長女、娘婿、同長男の大学生、及び長男の見守る中、手術室へ向かうベッドの上で、私は「ナンマイダブ、ナンマイダブ」とつぶやいた。しかし、半分投げやりで、半分負け惜しみの私の表情は、家族の目には、全身麻酔の手術へ向かう緊張によって、歪んでいたに違いない。妻の、眉をひそめるのを感じた。
  手術室に運ばれ、全身麻酔にかかり、私自身の意識の中では一瞬ではあったが、事後に妻から、手術は、医師の事前説明通り二時間かかったと聞かされた。待機していた家族は、手術の無事成功を確認して、散会した。

 術後の入院中、抗ガン剤TS1を朝夕食後に各四ミリグラム服用した。二〇〇四年六月五日の脳梗塞発病以降、私が服用し続けている血液凝固防止剤ワーファリンが、抗癌剤TS1の副作用で効き過ぎる可能性を、病院の薬剤師は、予告していた。
 三月十九日の退院の日は、文字通り嬉しかった。しかし、自宅へ戻って足腰が異様に弱っているのを自覚せざるを得なかった。病院のベッド生活に慣れて気付かなかったが、自宅の布団から何かにつかまらずに、自然には立ち上がれなくなっていた。
 入院以前、七二キロ以上あった体重は、六二キロに落ちていた。これからは、せいぜい一日に幾度も、二階への階段を昇降したり、足腰の屈伸運動を繰り返す努力が必要だなと感じた。
 病院では、退院したら、映画館で公開中のいくつかの作品を見たいと思ったりしたものだが、実際には、妻が、私にマイカーのハンドルを握って外出することを許さなかった。実際、退院後、私が蒲団から何かにつかまりながら、よろよろと立ちあがる様は、いかにも頼りなく妻の目に映ったに違いない。
 薬剤師が予告した通り、抗ガン剤の副作用は全く尋常ではなかった。医師の説明において、「今まで経験したことのない、異様な味」と表現されたのは、朝夕食後のTS1とワーファリンの副作用の味覚障害のため、食事がとてつもなく不味く、そのため、食欲が著しく低下したのだった。歯を磨くと、歯茎から口内に血が溢れた。小水は血尿であった。これは、間違いなく、副作用によるものであった。結局、自宅に戻っても、食事が殆ど出来なかった。結果として、退院時に医師が指定した次回外来診療予定日の三月三一日よりはるか以前に、私は病院を再訪し、即日、再入院に追い込まれた。三月九日に退院しながら、二四日には、再入院したのだった。
 それでも、三月一日の誕生日に、私は七六歳になった。手術前、自分の享年は、七五歳となるのかなと訝った弱気を顧みざるを得なかった。これで、本年秋に、妻との金婚式を迎える可能性が出て来た。以前、九八歳まで生きる夢を語っていた自分を顧みざるを得なかった。

 四月一日に二度目の退院をした。電子辞書や書籍など、病室内に持ち込んだものは、かなりの重量になっていた。しかし、病室から我が家に向かうタクシーへの積み下ろしは、すべて妻が担った。妻は私より一歳下だが、日頃から足腰を鍛えておくようにと、私に言い続けていた。元々妻の趣味の第一位は山歩きで、日々体操や足腰を鍛える努力を怠らず、最近は、余り出かけてないとはいえ、彼女は、健脚コースに長年こだわってきていた。
 タクシーの車窓から見える、流山市内の桜は満開であった。今回の退院は、次回入院は四月十一日との条件付きであった。今後は、こうして入退院を繰り返すのだろうかと気持ちは暗くなった。
 十一日午後、三度目の入院をし、即日、IVHポート造設術を受けた。心臓に直結する右鎖骨下静脈にカテーテルを埋め込み、ポート(点滴用の針を刺すための器具)を埋め込む手術で、一時間余りを要し、患者は、局部麻酔のため、痛くはなくとも、強い緊張を強いられ、術後かなりの時間麻酔が解けず、トイレに行くにも看護師の援助を要するハードな手術だった。
 即日、埋め込んだポートを通して、抗がん剤ゲムシタビンの点滴が行われた。この抗がん剤の点滴は、私にとっては、二月二十四日の手術以降、始めての副作用の殆ど伴わない治療となった。このため、病院食は美味しいとは言えなくとも、従前のように、異様に不味くもなく、殆ど完食出来た。
 担当医師は、今次施術後の血液検査の結果、副作用は、期待以上に良好な結果が得られたとして、当初の一週間の入院予定を繰り上げ、入院六日目の三月十六日に退院し、以後は、毎週火曜に外来にて同抗がん剤の点滴と血液検査等の検査を受ける方向となった。
 三月十九日にはタクシーで病院と我が家を往復したが、次回三月二十六日は愛車を運転して通院する許可が、医師から出た。妻も、医師の許可が出ればと思ったのか、異存はなかった。
 三月二十六日の外来診療は四時間余りかかったが、医師は、今後は、来週の外来診療は休みとし、以降は、火曜日に外来で抗がん剤治療を受けることとなった。三週点滴のための外来通院をした後、一週休むという治療日程を、今後は繰り返すという治療方針を、私は了承した。

 その後、私の尊敬するある大阪府在住の俳句の先輩から、お手紙を頂いた。私が病室から妻に託した手紙への返信であった。 「やっと暖かくなってまいりました。熊本の大地震に驚いています。熊本には、満州時代の幼なじみや、昔の教え子がおりますので、無事を確かめ一安心したところです。何時何が起こるかわかりませんね。
 あなたの癌との闘いのお手紙を読ませて頂きました。 私は、父と弟を胃癌と大腸癌で三十年程前に見送りました。父は無一文で満州から引き揚げてから家族のために必死に働き何とか生活が安定して六十九歳で。気付いた時には手遅れで。母は早く亡くなっていたので、可愛想でした。
 弟は、職場の検診で肺癌がみつかり、手術をしましたが、大腸癌からの転移癌で、四十二歳で、中学一年と小学五年の息子を残して亡くなりました。今なら色々治療の方法があったのでしょうが、三十年以上前では、医療水準も低く致し方なく、これも運命と思います。
 このようなことがあり、私は癌保険に入り、一年一回、人間ドック検診を継続受診しています。娘からは、「もう人間ドック行かなくともいいんじゃないの」と言われますが、一年間を元気に過ごすために、今後も続けるつもりです。 大学時代の友人で、京都の俳句会をやっている人がいます。彼女は四十歳代で乳癌、五十歳代で卵巣・子宮癌、六十歳代で皮膚癌でも元気に「癌とは友達」と言いながら、俳句を作っています。 今は、医学も進歩し、癌は怖いが恐れるに足らず、良い薬が次々生まれていますので、一日でも多く生きて下さい。御健闘を祈っています」

 先輩のアドバイスにもあったが、私は病気には負けないつもりだ。今私の周辺には、癌と闘っている人は決して少なくない。 その誰も明るく振舞い、日々を元気に送っている。癌は、今では、容易には死なない病気になっているのだ。私も癌には徹底的に抗って、やり残したことを出来る限り片付けてから成仏しても、遅くはないだろう。(2016/07/22)


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